2026-07-09
一蓮托笑の参加者に共通していたのは、「人生と向き合ってきた人」でした。
2024年に一蓮托笑を始めてから、あることに気づきました。
ご参加くださる方には、
カウンセラー、セラピスト、コーチ、トレーナー、先生、講師、管理職、経営者…。
人の心や体に寄り添い、人を育て、支える立場の方が本当に多いのです。
ピアノや二胡の演奏家、舞台女優、萩焼ギャラリー、画家など、クリエイターとしての表現を通して人の心に寄り添う方もいらっしゃいます。
それだけではありません。
離婚や病気、介護や子育て、仕事での挫折など、
それぞれの人生で経験した出来事と向き合いながら、
その体験を懸命にプラスの力へと変え、新しい一歩を踏み出そうとしている方も、本当に多いのです。
職業も、年齢も、生き方も、それぞれ違います。
(一蓮托笑は、50歳以上限定ですが)
でも皆さんに共通していたのは、
「これまでの人生を、自分の力に変えて歩いてきた人」だったことです。
嬉しかったこと。
苦しかったこと。
悲しかったこと。
葛藤したこと。
絶望したこと。
傷ついたこと。
乗り越えてきたこと。
心について学び、自分を磨き、自分の感情にも向き合い、言葉を大切にしながら歩んできた。
だからこそ、人の痛みにも寄り添える。
そんな方が、本当に多いのです。
でも、そんな皆さんから、よく聞く言葉があります。
「自分のことは、自分が一番わかっていない気がします。」
「客観的に、自分がどう表現されるのか知りたかった。」
最初は、この言葉が少し意外でした。
こんなに自分と向き合ってきた方が、どうしてそう思うのだろう、と。
でも今は、その理由が少しわかる気がしています。
一蓮托笑に参加される方は、自分と向き合うこともたくさんしてきた方です。
心を学び、役割を生き、自分の人生を何度も振り返ってきた。
でも、その向き合い方は、ほとんどが「言葉」だったのではないでしょうか。
自分のことを書き出す。
話す。
気づきを得る。
そんな時間は、これまでたくさん重ねてこられた。
でも、私は時々思うのです。
自分の姿を、本当の意味で受け取る機会は、案外少ないのではないか。
仕事で使うプロフィール写真はある。
SNSに載せる写真もある。
でも、
「これが、今の私なんだ。」
「これが、これまで生きてきた私の姿。」
と、肩書きも役割も外して見つめたことがある人は、多くないような気がする。
撮影中、写真を一緒に見ながら、
「私って、こんなふうに笑うんですね。」
そうおっしゃる方が、本当に多いのです。
笑うと目が細くなること。
笑うとしわができること。
顎のラインが、若い頃に比べて少し変化が出てきた。
それらを見て最初は少し照れながらも、
「・・・嫌じゃないかも。」
そんなふうに変わっていく瞬間があります。
私は、その瞬間がとても好きです。
一蓮托笑で撮る写真は、若く見せるためのものでも、きれいに見せるためだけのものでもありません。
今の自分を、そのまま受け取るための一つの方法なのだと思っています。
そして、そこにこれまで歩いてきた人生の物語が重なった時、
「ここまでの私でよかった。」
という感覚が、少しずつ自分の中に育っていく。
だから皆さん、撮影が終わったあとに、少しずつ自然と次の一歩を踏み出していかれるのかもしれません。
2027年開催予定の一蓮托笑に参加が決まった方の撮影が、少しずつ始まっています。
ある参加者の方が、最近撮影後にこんな言葉を書いてくださいました。
「単なる綺麗な写真を撮ってもらったのではない。
写真家・清水さんが撮ってくれたのは『私の生きた証』だった。
これまでの自分を愛おしく想いながら、未来への一歩を踏み出す勇気をもらい、新しいスタート♡」
寺族・KETOパン職人 加藤園子さんより|第3回一蓮托笑ご参加
こんなに一般人である被写体に興味を持って撮ってくれる写真家がいるんだ。人に興味を持てるというのは、ある意味才能だと思っている。
一枚の笑顔という写真を撮るために、その人に興味を持ち、話を聞き、頷いてくれる。
職業という一線を超えていると思った。
記事全文は上記リンクからお読みください。
Niko Life Producer 麓 郁代さん|第3回一蓮托笑ご参加
この言葉を読んだ時、本当に嬉しかったのです。
私が残したいのは、「ただ綺麗な写真」ではありません。
その人が歩いてきた時間。
迷ったことも、笑ったことも、涙したことも。
そのすべてを含めて、
「これまでの私を、少し愛おしく思える。」
そんな姿からにじむ、美しい笑顔の一枚です。
一蓮托笑は、写真を撮るプロジェクトではありません。
50歳以上の女性を、
ただ綺麗に撮って飾るプロジェクトでもありません。
もちろん、人生を評価する場所でもありません。
成功者を紹介する場所でも、不幸体験を語る場所でもありません。
ここまで生きてきた時間を、もう一度、自分自身で受け取り直す時間です。
そして、その喜びは一人では終わりません。
写真展では、家族や友人、職場の仲間が写真と言葉を見て、
「そうだったんだね。」
「素敵だね。」
「頑張ってきたんだね。」
そんな言葉が自然に交わされます。
自分の人生を、自分で受け取ること。
そして、大切な人にも受け取ってもらうこと。
その時間が、新しい一歩を踏み出す力になっているのを、私は何度も見てきました。
一蓮托笑の参加者に共通していたのは、
「もっと自分を知りたい人」ではありませんでした。
自分と向き合い続けてきたからこそ、人生の後半を悔いなく生きるために、もう一度、ここまで生きてきた自分を受け取りたかった人。
そんな方たちなのだと思います。
だから、一蓮托笑という体験を選んでくださったのかもしれません。
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